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「将軍家光の乱心・激突」を見た

今回は少しだけネタバレ文がありますので、
知りたくない方は【※ここまで】の文までにされることをオススメします。

「将軍家光の乱心・激突」は1989年に公開された映画で、監督は降旗康男さんです。降旗監督の作品で特に有名なところ(私が知っている)ですと、「鉄道員(ぽっぽや)」「極道の妻たち 三代目姐」など。まだまだ有名な作品があります。尚、アクション監督は千葉真一が担当しています。

「将軍家光の乱心・激突」は何度か見ている映画です。結構好きです。こういう少数精鋭で大軍団と戦う系のストーリーは結構好きです。しかも、この映画は、この時代の歴史にあまり詳しくない人でも十分、内容を理解できると思います。

しかし残念なのは、せっかく歴史の知識なしに楽しめる映画なのに、何故、客層にかたよりが出るような、こんなタイトルにしたのでしょう・・・。「将軍家光の乱心・激突」ではなく、ただの「激突」で良かったのではないかと。このタイトルを見ると、映画を見ようと思う人は、歴史好きに限られてしまうのではと思うわけです。最低でも、デートでは見ませんね。ま、どちらにしてもデートでは見ないか。。

さてさて、つべこべ言わずに内容について簡単にご説明しましょう。
尚、ご説明する内容は歴史の史実ではなく、あくまでも映画のストーリーですので予めご了承ください。

時は、江戸時代が始まって間もなくという頃。
徳川幕府の3代目将軍である徳川家光が日本を支配していました。
徳川家光の跡を継ぎ4代目の将軍となる「竹千代」はまだ幼く、保養で温泉に入りに行っていました。
そんな頃、江戸城では「竹千代は自分に似ていないから」という理由で、
頭がおかしくなった家光が、我が子を殺すべく竹千代の保養地に刺客を送ります。
竹千代を補佐する大人たちは、もう将軍職はあきらめて、このまま逃げようかとも考えますが、
さすが、将軍になるべき人物、竹千代は江戸城に行って家光と対決(?)することを決意。
その江戸までの道中を守る為に、7人の浪士が竹千代を刺客から守るというストーリーです。

2010年にリメイク公開された「13人の刺客」や
黒澤監督の「7人の侍」が思い出される少数精鋭VS大人数という設定です。

主役は、今は亡き緒形拳さん。脇を長門裕之さんが固め、悪役はアクション監督でもある千葉真一が刺客の首領を兼務。
頭がおかしい様子の徳川家光を京本政樹。
間違えている家光を本当は止めたいのだけど、でもやっぱり家光のことが一番大切だから・・・的な補佐役として丹波哲郎。
【※ここまで】

戦いについては、緒形拳さんと千葉真一さんの戦いが最終的な見どころですね。
そして、本当の見どころは、そこまでやって、多くの犠牲を払って、
ようやく江戸に辿り着いた竹千代が、果たして狂った家光とどう対峙するのか、です。本当に最後の最後。

ちなみに、この映画には、湘南爆走族のアキラ役で名前を売り出せるかという頃の織田裕二さんも護衛の7人の一人として登場しています。7人の一人でありながら登場シーンは多くありませんが印象に残る役を任されています。ここから織田裕二さんも名前を売り出していったのでは。

タイトルを決める時にもう少しエンターテイメント性を考慮できていれば、
「天と地と」ばりにスケールを大きくできたのではと思う今日この頃です。
ま、スケールを大きくして、見たらスケールが小さいというパターンもあるので何とも言えませんが。

さすが千葉さんの演出か、長門さんが全身燃えながら戦うシーンが
結構コーマーシャルされていたのが記憶にあります。

もし良ければ、是非見てみてください。

歴史の教科書の年号が変わっている件について。話は飛んで「徳川史観」

歴史の教科書に掲載されていた年号が以前と変わっている件について、代表的な事柄と言えば、武士政権ができた日本の記念すべき出来事である「源頼朝の鎌倉幕府の成立」でしょうか。

これまで「1192年」に成立したと言われていたのが、2007年に「1185年」に変更されたとのことです。尚、教科書も一つではないので、一般的な教科書ということでお願いします。

一応、注釈しておきますと、教科書を作った方々は「鎌倉幕府の成立が1192年から1185年に変わりました」ということではなく、「あくまでも鎌倉時代が始まった時期が1192年ではなくて1185年である」というニュアンスで教科書の改訂をしたそうです。

「え?鎌倉幕府と鎌倉時代の違いは何?」と言いたくなるような話ですが、いずれにしても、鎌倉幕府の成立に関わる年号として、これまでフォーカスされていなかった「1185年」という年号が出てきたわけで。

この議論の答えは結構シンプルです。要は、解釈の仕方です。
「鎌倉幕府の成立」という実は曖昧な定義を何にするかというところがポイントになります。参考として下記に鎌倉幕府を成立させた源頼朝の軌跡を年号で書いてみます。

•1185年 源頼朝が守護・地頭の任命権などを獲得
•1190年 源頼朝が右近衛大将に任命される
•1192年 源頼朝が征夷大将軍に任命される

こちらを見てお分かりの通り、以前までは、「征夷大将軍に任命される=鎌倉幕府の成立」という定義が妥当とされていたのが、「守護・地頭の任命権などを獲得する=鎌倉幕府の成立」が正しい定義なのではという意見が上げられたということです。

守護・地頭の任命権が与えられたということは、事実上、源頼朝が日本の武士政権のトップになったという証明であろうという考えです。確かに、守護と地頭の任命とは「ご恩と奉公」の成立であり、これぞ、まさに鎌倉幕府の骨子です。「いざ、鎌倉!」。

さて、正直この議論は、どちらでも好きに選べば良いと思います。人それぞれですから。
それよりも、この議論に触れると、鎌倉幕府の他の幕府の成立はどういう定義になっているのか興味が湧いてきます。

まず、室町幕府については、鎌倉幕府と同じような議論があり、幕府を成立させた足利尊氏が新政権の方針発表をした年を幕府成立の年であるとする場合と、その2年後の足利尊氏が征夷大将軍に任命された年にする場合との2パターンがあります。こちらも今では、征夷大将軍に任命された年ではなく、方針発表をした年に足利尊氏が「将軍家」を名乗ることを決定し全国に伝えたという史実もあるようで、前者の定義が妥当する声が多いようです。

では、江戸幕府については、どうか?
こちらは、徳川家康が征夷大将軍に任命された年を幕府成立の年にしています。現状、他の選択肢はないようです。

ここで疑問です。
何故、江戸幕府の成立は征夷大将軍に任命された年と信じられているのでしょうか。

徳川家康が開いた江戸幕府は、当時、日本列島に260くらいあった「国」を「藩」に変えるという、価値観が180度変わってしまうような政策を打ち出しました。これは、独立した王国の国王(大名)に、いきなり「幕府がその国をお前に与えてあげるから、言われた通りに支配しろよ」と言うようなもので、これまで自分の力で国を育ててきた王様としては、かなりの衝撃だった筈です。まじかよ、と。

「天下分け目の戦さ」と呼ばれる関ヶ原の戦いが1600年。
徳川家康が征夷大将軍に任命されたのは1603年であり、この年が江戸幕府の成立した年になっているということです。

この戦争から幕府成立までの3年間に家康がやっていたことは、自分の家系図の製作と、関東地域の支配などであり、まだ各国に対して大きな方針や施策は打ち出していません。
もし、鎌倉幕府や室町幕府の成立の定義を実質的な支配の開始にするなら、江戸幕府の場合は、1603年では無い筈です。

むむ。どういうことだ?何故、江戸幕府には、他の選択肢がないのか。

あまりに答えが出なかったので、逆の視点で考えてみました。
そもそも何故、鎌倉幕府や室町幕府の成立時期が、征夷大将軍に任命された時になっていたのか。

室町幕府の場合は元々「将軍家」を名乗るという史実がありながらも、何故か征夷大将軍に任命された年が選択肢として出て議論されていて、また、鎌倉幕府についても元々、「守護と地頭の任命権」という史実がありながら、現代になって、まるで新たな史実が発見されたかのように教科書が改訂されています。

一つの仮説を立てる前に、ここに「徳川史観」というキーワードをあげます。

この言葉は、徳川家康が当時、徳川家が武士政権を支配するのに最もふさわしい存在であるということを内外にPRする為に様々な歴史を都合よくねつ造し、それが現代まで残る歴史の定説の一つの基礎として残存しているものです。

徳川史観が残した代表的な歴史の定説の一つとしては、「征夷大将軍には源氏の血が流れていなければなれない」というものがあります。歴史好きの多くの人が、この説を聞いたことがあるのでは。

実は、こちらも徳川史観の一つであり、この説は誤りです。
実際に、織田信長は、天皇から征夷大将軍を拝命する可能性がありました(信長が拒否して実現ならず)が、織田信長は平氏の末裔であると自称していました。つまり、平氏の血でも、征夷大将軍にはなれたということです。

前述した徳川家康の家系図つくりとは、自分の家系を源頼朝と足利尊氏の共通の祖先に繋がるようにしたのです。そうすれば、自分が幕府を引き継ぐべき正統な血筋になるということです。

徳川史観は、江戸時代以前の歴史をあくまでも自然な形で事実を歪曲し、多くの歴史にウィルスのように入り込みました。特に、織田信長政権から豊臣政権に関わる歴史上の人物の評価については、徳川史観の視点を無視できません。つまり、徳川史観は、現代まで認識されている様々な歴史の基礎として未だに生きているということです。
ナポレオンのように、そのナルシストぶりから、短い足を長く書けと絵師に命じた、ごくごく個人的な歴史の歪曲とは違い、政治的な目的での歴史の歪曲は、本当に質が悪いもの。当然これは、徳川史観のことだけを言っているのではありません。歴史には多く見られる工夫です。

話に戻りますが私の仮説は、
徳川家康その人が、近代までの歴史認識である「鎌倉幕府や室町幕府の成立を征夷大将軍に任命された時」というものしたということです。しかも、それは近代よりはるか前、江戸時代が始まる当時からです。そうすることで、自分が征夷大将軍に任命された時に幕府が成立したという認識を与え、早期に「江戸幕府」という認識を周知のものとしたかったのではないでしょうか?!

ここまで熱っぽく書きましたが、正直、幕府の成立について、いつから、どう言われていたのかが分かる手がかりは、手元の資料にはございません・・・。そして、この仮説では、江戸幕府の成立時期について、征夷大将軍に任命された以外の選択肢が出ていないことに対する答えにはなっていませんね。

「教科書の年号が何故、変わったのか」よりも「何故、そもそもその年号だったのか」を考えてみた方が面白いかも。という雑談でした。

戦国時代に嫌気がさした上杉謙信

「上杉謙信」という人物は、戦国時代の大名の中で特に謎多き人物として描かれることが多い人物。「本当は女性だったのではないか」という説もあるくらいミステリアスな人です。

そして、現代はどうか知りませんが、最低でも明治前後までは、上杉謙信が統治した新潟の民からの「謙信公」に対するリスペクトは強かったようです。そのせいで、江戸時代の始まりに上杉家から新潟の統治を引き継いだ徳川の家臣だった大名は、民の上杉謙信びいきに明治時代まで統治するのに困ったそうな・・・。

また、「戦争の天才」「軍神」「毘沙門天の生まれ変わり」など、様々な尊称を持って知られる上杉謙信。山梨県の武田信玄さえいなければ、天下を統一したのは彼だったのではという声は少なくありません。

さてさて、そんな上杉謙信ですが、天才であるがゆえに(?!)ほかの大名としてはあまり見ないことをやっています。

それが、「城も家臣も領民も捨てた」事件です。

彼は、武田信玄との5度に渡る戦争の真っただ中、信玄との戦いが膠着状態になった頃に、自国での家臣の内部抗争や同盟関係にあった豪族の裏切りなど、イライラが募ったようで、いきなり、毘沙門天堂に籠ったのです。すると、家臣たちに出家すると伝え、高野山を目指して城を出たのです。つまり、上杉謙信は城と家臣を捨てたということです。

家臣たちは、大慌てで謙信を連れ戻しに追いかけて、高野山の前で謙信を城に連れ戻すことに成功したようです。この一連の期間の長さは確かではありません。出家の前にすぐに連れ戻したという説もあれば、謙信は出家ししばらく籠っていたという説もあります。

尚、家臣たちは「二度と裏切りません」という主旨の誓書を謙信に差し出して事なきを得たことから、これは謙信の計算だったという説があります。

もし計算だったとするのであれば、予断を許さない戦国の世で、この賭けはかなり危険な賭けだと思います。もう少し違うやり方があったのでは。

このお話し、当時の領民が聞いたら、どう思ったでしょう。

若き日の信長の苦悩

皆さん、ご存知の織田信長。とにかく、沢山の本やドラマや映画で色んな人物像に描かれる彼は、見た物によって、また沢山の人物イメージを持たれていると思います。日本人にとって良くも悪くも、最も印象深い歴史人物の一人でしょう。

さて、「戦国時代の覇者」と言われるこの人物は、志半ばで死んでしまいますが、日本列島で戦いに戦いを繰り返した時代を終わらせる流れを作った主要な人物です。そして、それまでの日本人の価値観、特に国の運営の仕方や戦争の仕方に革命を起こした人物でもあります。

信長が覇者となるまでのストーリーの始まりは、やはり今川義元を倒した時でしょう。
この今川義元という人物は、当時の最高権力者である足利幕府(今で言う日本政府)にとって、家系も良く実力もあるいということで、実質的には力がなくなっていた足利幕府に代わる最有力候補でした。歴史に「たられば」は禁句ですが、この時の戦いで、信長がもし今川義元に倒されていたとしたら、今川義元が天下を統一していたかもしれません。それ程に力がありました。

当時は、武田信玄や上杉謙信や斎藤道三など今でも有名な戦国時代のスターたちがいる時代です。
彼らよりも後輩であり、まだ無名だった信長が、いきなり、大スターの一人である今川義元を倒したわけですから、それらの先輩スターたちも驚いた筈。ま、最低でも、生意気な奴だとは思ったでしょう。

では信長は、その後、その諸先輩方に対して、どのような態度をとったのでしょうか。今川義元と同じように彼らを敵対視して、挑発的な態度をとったのでしょうか。

実は、まったく逆です。
当時の信長は今川義元に勝利したと言えど、まだまだ弱小大名であり、彼らには、とても勝てる体力を持っていませんでした。そこで、信長は、武田信玄に対して、自分の長男と信玄の娘の結婚を懇願。上杉謙信に対しては貢物と一緒に謙信を師と仰ぐようなへりくだった手紙を送っています。しかも何度も。。斎藤道三に至っては、道三の娘と信長は結婚し、義理の息子になっています。

「織田信長」と言うと、生まれてから「うつけ者」と言われた若い時期と、ある程度、勢力を持った時期のイメージが強いと思いますが、まだ駆け出しの頃は、こういう細かい配慮や政治をしていたのです。

信長は、様々な史実に共通してプライドが高い人物として描かれています。そんな彼にとってこの時期は、人が思う以上に悩ましい時期だった筈。

確かに、誰かにへりくだる信長さんは見たくないかも。。。

「桃太郎」の正体とは?

結構、勘違いされている歴史の偉人?!

歴史上で登場する人物の姿は、子供の時に見たドラマや映画、または教科書などでイメージしたものが現在まで根強く残っています。そのイメージから、「きっとあの人はこういう人なのだろう」など自分なりの解釈で、自分の中でのその人の人物像は無意識に形作られているのはないでしょうか。

その人物像をそっくりそのまま変える必要はありませんが、あまり知られていない情報を入れることで、その無意識に作られたイメージを少し疑ってみる機会ができれば面白いかなと思う今日この頃です。

さて、第一弾の歴史人物は「桃太郎」です。

「桃太郎」と言えば、猿と犬とキジを率いて、民を苦しめていた鬼を倒し、民から略奪していた宝物を持ち帰ったという童話のヒーローですが、実は、この童話「桃太郎」の元となる話の舞台は、日本のはるか古代の歴史の中にあるのです。
なんと、その時代は、紀元88年くらいです。かなり前のことです。

「桃太郎」として描かれている人物は全くの別名で、その時代の天皇から指示をされて日本列島の各地を制圧する為に派遣された4人の将軍の内の一人なのです。その人物は、日本の中国地方を担当することになりました。
その指示は、要約すると「各地域の未開発の村などに大和朝廷の近代的な文明を教え、もし従わなければ、どうやっても従わせること」ということで、まさに制圧者らしいコメントです。

物語の中で「鬼」と言われている一族は、朝鮮半島から今の岡山県に移り住んだ種族で、「桃太郎」が来るまでは、岡山県一体を統治していました。そこに、当時、最も強かった大和朝廷から派遣された「桃太郎」が制圧しに来たということなのです。

「桃太郎」は見事に役目を果たし、「鬼」を倒して岡山を制圧。

つまり、「桃太郎」というお話しは、大和朝廷が日本の最強国になる為に各地を制圧した際のお話しだということです。

ちなみに、今、岡山に建立されている神社には、「桃太郎」のモデルである人物と、「鬼」のモデルである人物の二つの銅像が建てられています。それは、「鬼」のモデルにされた人物が民にとっては「鬼」ではなかったという証なのかも知れません。

日本の映画を見た「清州会議」

こちらのコーナーでは、極力ネタバレしないようにしつつ、映画の見所をご紹介していきます。前もって言いますが、ご紹介にあたっての評価には、個人の主観が多分に含まれています。
なので、こちらのコーナーを見て映画を見ることを決断した方は、「実際に見たら、つまらなかったわよ!」等という想いを抱いたとしても、苦情等は一切受けません。予めご了承の程よろしくどうぞ!

さてさて、記念すべき第一弾のタイトルは「清州会議」です!

清州会議とは、戦国時代の覇者である織田信長が本能寺の変で死亡した後、誰を後継者にするかを決めた会議です。建前上は、織田信長の息子たちから誰を跡継ぎにするかを決めるものでしたが、実質は、その跡継ぎの後見役になる織田信長の家臣が、信長の後継者になるということで、そういう政治競争を決着する重要な会議。

映画「清州会議」は、2012年に三谷幸喜が書いた小説を基にしています。三谷幸喜が監督・脚本を務め製作され、翌2013年に公開されました。

まず面白いのは、時代劇ならではの堅苦しい言葉使いが全くないということ!言葉使いだけではなく、コミュニケーションも出来る限り、砕けたものにしています。

三谷幸喜ならではのコメディータッチで、差し迫った状況である織田軍団をコミカルに描いているところも見所です。
「歴史はよく分からないから・・・」という人でも、十分に楽しめる映画だと思います。
とにかくシンプルなストーリーで、動きが多く、その動きもやたらと大げさにしています。

時代劇でよくある雰囲気を伝えるシーン。風景や陶芸品などを映して、日本文化の「わび」と「さび」を伝えるようなシーンです。時代劇が好きではない人には、ああいうのが苦手な人も多いのでは。
そういうシーンが一切ありません。あったとしても、それを覚えてないくらい展開がめまぐるしく動き、のんびりした感覚を抱かせない映画ですね。

役者の演技については、特にコメントしません。良いか悪いか判断できないからです。響くものはないです。これは、三谷映画にあることです。どうしても三谷幸喜の演出の色が強く、役者の特性はあまり記憶に残っていないのが正直なところ。

歴史の史実性については、気になったのが一点だけ。
松姫は、あの時代、八王子市の北条家にいる筈なので清州会議の場にはいません。
別に松姫じゃなくても良かったのでは、と思いましたが、三谷幸喜がわざわざそれを選んだ理由があるのでしょう。

最後ですが、
つまり役所広司が演じる柴田勝家と大泉洋が演じる豊臣秀吉の二人の戦いであるように思えた清州会議が、それだけではなかったということが最後の最後で分かる、という、ちょっとしたドキドキも与えてくれます。さすが、三谷幸喜。ミステリー性を忘れていない。

結論、是非見て下さい!

実は、違う人?日本の英雄たち

研究の近代化や新たな発見により教科書の内容は部分的に変化しているんです。
では何故、変化するのか。それは、歴史の史実の誤りが発見されるから。

誤りの原因は何でしょう。
憶測が独り歩きしているケースや、解読ができなかったケース。そして、遺物によって誤解が生まれるケースなど、様々なケースがあります。中には、先人である歴史家たちが言い切ったことを後輩である歴史家やジャーナリストが素直に受け入れた結果、史実としてすっかり浸透しているパターンもあります。

あるケースだと、当時、沢山の発見をした有名な歴史家が言い切ったことが、特に疑われることもなく史実として定着し、どの本でも、その人物はすっかりダメ人間として描かれていました。それがようやく再評価されて、現在、研究が進み、徐々に人物イメージが変わってきています。その人物からすれば、本当にたまったものではないですね。残念ながら日本ならではのそういう背景もあるんですね・・・。

さて、今回の歴史の教科書の変化は、「肖像画」です。
今、二人の英雄が話題です。一人目は鎌倉幕府を開いた源頼朝。二人目は、その次の幕府である室町幕府を開いた足利尊氏。
なんと、この二人の英雄の肖像画は、本人ではない可能性が高いようです。
日本で幕府を開いた三人の英雄、源頼朝、足利尊氏、徳川家康の内の二人が肖像に誤りがあったということです。

源頼朝と言われた肖像画は、なんと、足利尊氏の弟ではないかと言われており、足利尊氏と言われた肖像画は、尊氏の家来の高師直ではないかと言われています。まだ定かではないので現在の教科書では「騎馬武者の画」等と人物を特定しない形になっています。

日本史上「幕府」という武士政権を開いた三人の征夷大将軍の人物画像が間違えていた、というのは歴史家として結構な失態かと・・・。