歴史の教科書の年号が変わっている件について。話は飛んで「徳川史観」

歴史の教科書に掲載されていた年号が以前と変わっている件について、代表的な事柄と言えば、武士政権ができた日本の記念すべき出来事である「源頼朝の鎌倉幕府の成立」でしょうか。

これまで「1192年」に成立したと言われていたのが、2007年に「1185年」に変更されたとのことです。尚、教科書も一つではないので、一般的な教科書ということでお願いします。

一応、注釈しておきますと、教科書を作った方々は「鎌倉幕府の成立が1192年から1185年に変わりました」ということではなく、「あくまでも鎌倉時代が始まった時期が1192年ではなくて1185年である」というニュアンスで教科書の改訂をしたそうです。

「え?鎌倉幕府と鎌倉時代の違いは何?」と言いたくなるような話ですが、いずれにしても、鎌倉幕府の成立に関わる年号として、これまでフォーカスされていなかった「1185年」という年号が出てきたわけで。

この議論の答えは結構シンプルです。要は、解釈の仕方です。
「鎌倉幕府の成立」という実は曖昧な定義を何にするかというところがポイントになります。参考として下記に鎌倉幕府を成立させた源頼朝の軌跡を年号で書いてみます。

•1185年 源頼朝が守護・地頭の任命権などを獲得
•1190年 源頼朝が右近衛大将に任命される
•1192年 源頼朝が征夷大将軍に任命される

こちらを見てお分かりの通り、以前までは、「征夷大将軍に任命される=鎌倉幕府の成立」という定義が妥当とされていたのが、「守護・地頭の任命権などを獲得する=鎌倉幕府の成立」が正しい定義なのではという意見が上げられたということです。

守護・地頭の任命権が与えられたということは、事実上、源頼朝が日本の武士政権のトップになったという証明であろうという考えです。確かに、守護と地頭の任命とは「ご恩と奉公」の成立であり、これぞ、まさに鎌倉幕府の骨子です。「いざ、鎌倉!」。

さて、正直この議論は、どちらでも好きに選べば良いと思います。人それぞれですから。
それよりも、この議論に触れると、鎌倉幕府の他の幕府の成立はどういう定義になっているのか興味が湧いてきます。

まず、室町幕府については、鎌倉幕府と同じような議論があり、幕府を成立させた足利尊氏が新政権の方針発表をした年を幕府成立の年であるとする場合と、その2年後の足利尊氏が征夷大将軍に任命された年にする場合との2パターンがあります。こちらも今では、征夷大将軍に任命された年ではなく、方針発表をした年に足利尊氏が「将軍家」を名乗ることを決定し全国に伝えたという史実もあるようで、前者の定義が妥当する声が多いようです。

では、江戸幕府については、どうか?
こちらは、徳川家康が征夷大将軍に任命された年を幕府成立の年にしています。現状、他の選択肢はないようです。

ここで疑問です。
何故、江戸幕府の成立は征夷大将軍に任命された年と信じられているのでしょうか。

徳川家康が開いた江戸幕府は、当時、日本列島に260くらいあった「国」を「藩」に変えるという、価値観が180度変わってしまうような政策を打ち出しました。これは、独立した王国の国王(大名)に、いきなり「幕府がその国をお前に与えてあげるから、言われた通りに支配しろよ」と言うようなもので、これまで自分の力で国を育ててきた王様としては、かなりの衝撃だった筈です。まじかよ、と。

「天下分け目の戦さ」と呼ばれる関ヶ原の戦いが1600年。
徳川家康が征夷大将軍に任命されたのは1603年であり、この年が江戸幕府の成立した年になっているということです。

この戦争から幕府成立までの3年間に家康がやっていたことは、自分の家系図の製作と、関東地域の支配などであり、まだ各国に対して大きな方針や施策は打ち出していません。
もし、鎌倉幕府や室町幕府の成立の定義を実質的な支配の開始にするなら、江戸幕府の場合は、1603年では無い筈です。

むむ。どういうことだ?何故、江戸幕府には、他の選択肢がないのか。

あまりに答えが出なかったので、逆の視点で考えてみました。
そもそも何故、鎌倉幕府や室町幕府の成立時期が、征夷大将軍に任命された時になっていたのか。

室町幕府の場合は元々「将軍家」を名乗るという史実がありながらも、何故か征夷大将軍に任命された年が選択肢として出て議論されていて、また、鎌倉幕府についても元々、「守護と地頭の任命権」という史実がありながら、現代になって、まるで新たな史実が発見されたかのように教科書が改訂されています。

一つの仮説を立てる前に、ここに「徳川史観」というキーワードをあげます。

この言葉は、徳川家康が当時、徳川家が武士政権を支配するのに最もふさわしい存在であるということを内外にPRする為に様々な歴史を都合よくねつ造し、それが現代まで残る歴史の定説の一つの基礎として残存しているものです。

徳川史観が残した代表的な歴史の定説の一つとしては、「征夷大将軍には源氏の血が流れていなければなれない」というものがあります。歴史好きの多くの人が、この説を聞いたことがあるのでは。

実は、こちらも徳川史観の一つであり、この説は誤りです。
実際に、織田信長は、天皇から征夷大将軍を拝命する可能性がありました(信長が拒否して実現ならず)が、織田信長は平氏の末裔であると自称していました。つまり、平氏の血でも、征夷大将軍にはなれたということです。

前述した徳川家康の家系図つくりとは、自分の家系を源頼朝と足利尊氏の共通の祖先に繋がるようにしたのです。そうすれば、自分が幕府を引き継ぐべき正統な血筋になるということです。

徳川史観は、江戸時代以前の歴史をあくまでも自然な形で事実を歪曲し、多くの歴史にウィルスのように入り込みました。特に、織田信長政権から豊臣政権に関わる歴史上の人物の評価については、徳川史観の視点を無視できません。つまり、徳川史観は、現代まで認識されている様々な歴史の基礎として未だに生きているということです。
ナポレオンのように、そのナルシストぶりから、短い足を長く書けと絵師に命じた、ごくごく個人的な歴史の歪曲とは違い、政治的な目的での歴史の歪曲は、本当に質が悪いもの。当然これは、徳川史観のことだけを言っているのではありません。歴史には多く見られる工夫です。

話に戻りますが私の仮説は、
徳川家康その人が、近代までの歴史認識である「鎌倉幕府や室町幕府の成立を征夷大将軍に任命された時」というものしたということです。しかも、それは近代よりはるか前、江戸時代が始まる当時からです。そうすることで、自分が征夷大将軍に任命された時に幕府が成立したという認識を与え、早期に「江戸幕府」という認識を周知のものとしたかったのではないでしょうか?!

ここまで熱っぽく書きましたが、正直、幕府の成立について、いつから、どう言われていたのかが分かる手がかりは、手元の資料にはございません・・・。そして、この仮説では、江戸幕府の成立時期について、征夷大将軍に任命された以外の選択肢が出ていないことに対する答えにはなっていませんね。

「教科書の年号が何故、変わったのか」よりも「何故、そもそもその年号だったのか」を考えてみた方が面白いかも。という雑談でした。





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